幕間 後編
 (お侍 extra)
 



     
冬の胡蝶



 さて。出立の準備…というよりも、自分が不在の間、居残る方々が出来るだけ心許ない想いをしないように、不便な想いをしないようにと。日頃からも作り付けの引き戸の奥の、棚や行李にきっちり整理して収めてある着替えや小間物、それらの補充をしっかと整え、居室や寝間のお掃除を念入りに済ませたシチ母さんは、留守中の男所帯のことをキララ殿と五郎兵衛殿とに重々お願いした上で、
『橋向こうにどかどか落ちてる斬艦刀で、式杜人の禁足地まで一気に飛んでってもいいんですが。』
 そうすりゃあ街まで1日もかからないんですけどね、だなんて。頼もしいにもほどがあることを言い出したのを さすがに勘兵衛様に窘められて、順当に運搬船の予備で…何往復かするうちの1度ほど、2台で来たものが余って置かれていたホバー船に乗り、それでは留守を頼みますとやっとお出掛けしていって。

  “…さて。”

 宵でも雨でもないのに妙にしんと静まり返った家の中。囲炉裏の暖かさにも変わりはなかろうはずなのに、家人が一人減るとこうまで静かになるものか。何も七郎次が常ににぎやかだった訳ではないが、それでも彼がいるとそれだけで、何の会話もなくたって落ち着いて寛げる、満たされた安定感のようなものがあったのだと、今になってひしひしと思い知らされる。
“場を保たせることへ、一番貢献していたには違いないわな。”
 腕のギブスが小さくなったお陰様、久蔵も病床から離れたも同然の身で、もう衾も延べてはいない囲炉裏端であり。そんな久蔵自身もまた、何とも所在無げにワラを綯った円座に膝を揃えて座っている。そういえば、彼はあの決戦以降はずっと臥せっていた訳で、村の様子や何やは、退屈せぬようにとの思いやりから七郎次が日々語って聞かせていたけれど。それでも…神無の短い秋の終盤という一カ月を、見もせず過ごした空隙は結構大きいものかも知れず。
「久蔵。」
「?」
 掛けられた声に素直にお顔を上げた彼へ、
「せっかく腕が軽くなったのだ。久し振りに外へ出てみぬか?」
 勘兵衛がそんなことを言い出した。ギブスで固めて首から装具で提げた格好の前腕部というこの箇所さえ痛めなければ、立って歩こうが刀を振り回そうが、踊りのお稽古を始めようが
(…)、何をやっても構わぬと、医師殿からのお墨付きも頂いてはある。
「…。」
 彼もまた“そうだそうだった”と思い出し、そのついでに…腕を下敷きにしないようにと気をつけながら、
『久し振りですねぇ』
 その懐ろに掻い込んで、昨夜は一緒に寝てくれたお母様だったこと、降ろした髪の甘い匂いまでもを思い出した次男坊だったらしかったが。
(おいおい)
「…。」
 そこは男の子だ、悄然と気落ちしかかったところを、自分でぶんぶんとかぶりを振ると思い切り振り払い。うんと頷いて立ち上がったそのまま、
「…。」
 そのまま こちらをじっと見やる眼差しに苦笑を零し、お誘いした以上はと、水を向けた勘兵衛もまた囲炉裏端から立ち上がることと相なった。





 それでなくとも端然として物静かなお方…だと把握されており、あまり騒がせてはご迷惑だろうからと、村人たちも大怪我を負った彼を気遣って、家へまで訪れるのは控えていたらしかったし。侍仲間の他の顔触れはといえば、菊千代と勝四郎は虹雅渓、平八は相変わらず床から起き上がることさえ厳禁とされている身で、五郎兵衛はその看病につきっきり…と来て。臥せっていた一カ月の間の久蔵は、限られた面々としか顔を合わせてはいなかったことになる。少々立て付けの悪い引き戸をがたごと閉じていると、

  「…おお、何処の誰かと思いましたぞ。」

 そんなお声が掛けられて。おやと頭を巡らせれば、洗濯でもして来たものか、その大柄な躯に添わせると随分と小さく見える、浅い盥(たらい)を小脇に抱えた五郎兵衛殿が通りかかったところ。この時間帯は村人たちもその大半が畑や作業場へと向かっており、家並みの連なる通りは静かなものだし。それでなくとも村人らとは存在感が微妙に異なるがため、ただ立っているだけでも十分に人目を引く二人ではあったが。それ以上に五郎兵衛の注意を引いたのが、久方ぶりに立っている姿を見る久蔵で。しかもいで立ちも違っていることが、おやと気を引いたに違いなく。
「…。」
 何せ その身にまとっているのは、あの特徴ある赤い服ではない。臥せっている間は白い小袖の夜着で通していた彼であり。そして今は、この村の男衆の装束、前合わせになった白い小袖と青い単
(ひとえ)を羽織っており。ただ、あの白い下履きは、彼にはあまりに丈が短かったので、
『ただでさえ寒いのが苦手そうですのに、これでは冷えることでしょね。』
 そうと案じた七郎次が、昨日のうちのほんの半時もかけずに縫い上げた、足首から甲までかかるかというほどもの丈のある、正青の筒裾ズボンを履いており。そこのところがちょっとばかり変則的な趣きもしないではなく。しかもその上、七郎次が日頃 まとっていたあの淡紫の長い外套を、肩に引っかける格好で羽織ってもいる。母上…もとえ、槍使い殿は、かなりの走行風を受ける道中になるがため、別のもっと防寒効果の高いものを羽織っていくからと置いていったものであり。その懐ろには肘のところで中折れにして吊り下げられた右腕が収まっている次第。
「あの赤いのでは、腕をいちいち入れたり出したりが難儀だそうでの。」
 そういえば、足元は自由が利いていたものの、上半身は…それもまた刀を二本も扱う邪魔にならぬようにか、その痩躯へ張り付くみたいに、ぴたっとしておりましたなと思い出し、五郎兵衛殿も納得の頷きを見せて、
「それにつけても、早いものですな。」
 ほんの昨日までは石膏で重かった腕のせいもあって、じっと床に臥せっておられたものが、もう背中を伸ばして立って歩いていて、

  「梢渡りまでなさろうとは。」
  「え…?」

 ついつい、話相手へと視線を向けていて油断した、その僅かな隙を衝いてのこと、
「久蔵?」
 ひょいひょいっと。手近な木立の梢の上へ、ちょっとした傾斜か短い階段でも駆け上がるような気楽さで、手放しで登っている じな…久蔵であり。片腕を吊っていてバランスも悪かろうに、何より、病み上がりで身体も本調子ではなかろうに。いきなり何と大胆なと、感嘆した五郎兵衛同様、勘兵衛もまた唖然としかかったものの。そんな些細なことは、彼にとって何の弊害にもなってはいないらしい。文字通りの危なげなく、あっと言う間に結構な高みへまで、その身を躍り上がらせている。
「若い者の回復力は、やはり違うというところでござろうかな。」
 これほどの驚異を目にしても、善哉善哉と、相変わらずの豪気なおおらかさを見せ、楽しそうに笑う五郎兵衛殿。とはいえ、それではとの目礼を残して、自分が寝起きする家の方へ…そそくさとも取れそうな、早い間合いで向かってしまう彼だったのは。昨日までの久蔵よろしく、床から離れられないもう一人の重傷者を、片時も独りにしたくはないからだろうと偲ばれて。
“状態は安定しておるらしいと聞いたが。”
 気難しそうに見えてその実、存外素直で単純で。この自分といい勝負なほど大雑把なところもあるせいで、実は何かと判りやすい久蔵と正反対。いつも笑顔を絶やさず、人懐っこく穏健そうに見せて、その胸の裡に抱えるものの重さゆえ、なかなか素の顔を表に出さないところが難物な平八だけに、五郎兵衛ほどの懐ろ深き人物でも、心をほどかせるのには手を焼いているのかも。そんな案じを胸中にふと浮かべた勘兵衛だが、
「…。」
「ああ、判っておる。」
 お話は済んだ? そんな空気を、視線だけで寄越して来た連れだと気がついて。くすりと笑うと顔を上げ、当初の予定へと気持ちを切り替える。こちらが歩き出すのを待っていたらしい樹上の青年は、すっかりと葉を落とした木立の梢に危なげなく立っており。確かに痩躯の君ではあるが、それへ加えて、今はあの双刀も背負ってはいない身だが。それでも…そこまで軽いはずはないだろうに、彼が立つ枝がたわみもしないのが何とも不思議な光景で。
「久方ぶりなのだ、気をつけよ?」
 ただ歩くだけでも、ともすれば息が切れるのではなかろうかと案じていたのに。膝までを覆う淡紫の外套の裾を楽しげに翻し、頭上に冠した金色の髪揺らして。ひらりひらりと身軽に梢の上を進んでゆく様は、ずっと健在だった頃のそれと、さしたる差はないようにも思われて。
“誰も気配にすら気づかんしの。”
 たまに畑や作業場の方から道を戻りくる村人があると、勘兵衛に気づいて笑顔と共に会釈を向ける。お寒うなりましたな、久蔵様のお加減はいかがだか? それへと、ああまあ変わりはないぞなどと白々しい相槌を打つ勘兵衛の様子を、やはり梢の上で足を止めると、他人事でもあるかのように、それにしては小さく笑いもって眺めている青年であったりし。侍としてひとかどの腕を持つとの覚えもあっての、自負の強い身。存在感は大したものである筈なのだが、それをあっさりと消してしまえる“消気”の極意もまた、超振動と同様に自在に操れる彼なのが何とも行き届いており、
“こうまで優れておっても…。”
 今の世情にあっては、息を潜めて我を殺し続ける“用心棒”くらいでしかその身を活かせなかった彼だというのが、いかに秀い出ているのかが判るだけに、勘兵衛には少々遺る瀬ない。平和な世に武装が不要だという理屈は重々判るが、何とも惜しいことよと思えてならず。そんな自分もまた、今の世には不適合な存在だということだろうかと想いが帰着して…再びの苦笑が洩れる。
「…。」
 勘兵衛がついつい抱えた、そんな重々しい感慨にさえ無縁だと言わんばかりの軽快さで。紫の胡蝶はひらひらと中空を舞い続ける。軽やかさとそれから、その身にまとった色味の淡さは、ただ眺める分には優しく嫋やかな美しさではあったものの。いつの間にやらその青みも淡くなり、ほのかに灰色がかって来たところの、冬も間近い神無の空に、どうかすると溶け入ってしまいそうな趣きでもあって。だからだろうか、
“………。”
 途中から妙に眸が離せなくなった。そこまで遠く離れてはいないというのに、うっかりすると見失いそうな気がしたから。いつものあの赤い服であったなら、こんなことを案じはしなかったのにと、思ったその端から、
“…見失うも何も。”
 彼のこういう行動を、人伝てに聞いたことはあっても自身の目で見たことがあっただろうか。誰ぞかと一緒に歩いているというところにしても、そういえばあまり見たことがないという事実を思い出す。
“まま、こういう哨戒ばかりやっておってはの。”
 これへとついて行ける者はそうそう居なかっただろうし、第一、それでは意味がない。普通一般の警護においては、警戒しておるぞという威嚇を兼ねての哨戒もまた、犯罪抑止という面での効果的な策ではあろうけど。彼らがしいていたのは、そんな気配をばらまいては何にもならぬ種の警戒だったので、これで正解なのではあるけれど、
“………。”
 もう哨戒の必要はないし、ましてや病み上がりの彼にいきなりそんな任など授けるつもりもない。ただ普通に、そこに居ることを隠す必要もなくの毅然と、振る舞ってもいいのだと、この彼は果たして…ちゃんと判っているのだろうか。
“普通に…か。”
 侍の普通、安寧の中ではさぞかし浮くことだろうよと、どこか自嘲も込めた想いを覚えて、勘兵衛がついのこととて再び小さく苦笑しかかったその時だ。

  「…あ。」

 小さな小さな声がしたのへ、ほんの刹那に全てを察した反射はおサスガ。ハッと視線を上げながら、何とかも木から落ちる…の倣いではなかったが、まだ緑が残っていた樹上の葉陰から、そこにいた影が不自然な大きい動きでもって、下へと移動した気配を掴み取る。何に気を取られていたものやら、それともやはり、まだまだ本調子ではなかったせいか。足元をすべらせ、落下しかけた久蔵であったらしく、
「久蔵っ。」
 ザザザッと不吉な枝鳴りの音が続く中、それは素早く樹下までを駆けつけた勘兵衛が、白い衣紋の袖ごと伸べた腕の…十センチほども空中にて。
「…っ。」
 金髪をやや逆毛に立てた格好で、逆さまになった白いお顔と向き合う形になった。下まで落ち切らぬよう、久蔵の咄嗟の反射が働いてのこと。ぎりぎりの枝へと何とか足を引っかけて、そのまま中堅どころの枝へ膝裏を咬ませることに成功したため。空中ブランコの妙技もさながら、逆さ吊りながらも地上への直撃だけは、自力で避けられた彼であったらしい。
「…大事ないか?」
 それまでの気配のなさから一転、がさごそ・ばささ・ざざざ…と結構な音がしたのは、いかに突発的な事態だったかの証し。右腕が使えず、それどころか痛めてはならぬと庇わねばならぬ患部であったというのに。そこまでのマイナスファクター、ハンデキャップも物ともしないとは、と。いかに頼もしい達人であるのかを再認しつつ、口から出たのがそんな案じの一言であり。
「…。」
 逆さまになったお顔が、少し大きく見開かれた赤い双眸が、無言のままながら“こくこく”と頷いて見せた。自分の身に起きたことよりも、こちらが度を外して仰天した様へと眸を見張って驚いているという感があり。安堵の気持ちも勿論あったが、そこまでの練達者であったかという…自分如きがあたふた案じて差し上げる相手ではないらしいとの、鼻白む想いも滲ませてのこと。はあと吐息を一つついたところが、
「…。」
 腹筋だけを使って枝の上へと上がり直した金髪の君が、その枝をまたぐようにして背後になるこっちへと向き直ると。そのまま えいと勢いを軽くつけ、こちら目がけて飛び降りて来て。
「…これ、久蔵。」
 今度こそ ばさりと広がったは、白い上着の広い袖。それが、ひらり舞い降りた紫の胡蝶を捕まえる。見ていたところでの所作一連だったので、不意を突かれて取り落とすということもなければ、雄々しき胸板や頑健な四肢が余裕で受け止め、支え切れずに向背へと倒れ込むという無様なこともなかったが。何をわざわざ、こんな真似をと、懐ろへと飛び込んで来た痩躯の君のお顔を覗き込もうとした勘兵衛からの視線を。相手の首元へと顔を埋めることで避けながら、

  「疲れた。」

 短く言って、ぎゅぎゅうっと。片腕だけで首っ玉へとしがみついてくる久蔵であり。
「…?」
 ついさっきまで、早く追いつかんかと何度も何度も振り返るほどそれはお元気に、梢渡りなどという離れ技を続けていた人物が。落ちかかっても危なげなく身を守れた達人が、何をいきなり言い出すかと怪訝に思った勘兵衛ではあったが、
「…そうか。疲れたか。」
 その落下で気が緩み、気勢も一気に萎えてしまったのやも知れないかと。そのまま膝裏と尻の下へ腕を渡してやって、幼子を抱えるその要領での子供抱きをし。今来た道を戻ることにする。懐ろの中への収まりもいい、細っこい見栄えに相応の、やはり…何とも抱えごたえの軽い若衆であって。なのに、
「………。」
 この温み、離し難いと強く思う。もう用向きは終わったのだからと、虹雅渓で初めて手合わせした時のように、興が冷めたと背を向けられても、引き留める術も謂れもないのだけれど。恐らくは自分よりも純度も格も上だろう、その腕の確かさや天賦の才への共鳴や、刀への才だけで物事を断じ、渡り歩けた時代への郷愁などでは勿論なくて。

  『もう、仕事は しまいか?』
  『…俺のものだ。』

 あまりに無垢で手付かずだった部分へと、ついつい構いつけて刷り込んでしまった熱や情を、それは素直に受け入れた彼の。その、危ういほどの廉直さへと。こちらもまた…魅入られ惹き込まれてしまったというところだろうか。

  『勘兵衛様を捕まえることなど、
   到底、どこの誰にも出来ぬことと諦めておりましたが。』

 窮状にある者へは何処までも手を尽くしてやるお方が、自らへ情を向けられると、その途端に冷然と突き放し、頑として受け入れない。よほどのものを背負っておいでか、自分は幸せになってはならぬのだと、大戦時、あの七郎次が副官に就いた時にはもう既に、その頑なさが出来上がっていた彼であり。筋金入りのそんな気性、もはや誰にも突き崩せはしまいと、あのしっかり者からでさえ“諦めていた”とまで言われたものを。この紅の胡蝶の君は…その健気さを見抜いた褒美にと、すぐの間際に寄り添うてくれたのみならず。この手を放すなという格好にて、頑なな世捨て人を“永遠の孤独”という自らを罰して封じた殻の中から、それはあっけなくも引っ張り出し果
(おお)せたわけであり。
「…。」
 大人しく収まっている腕の中。なのに、ちゃんといるかと確かめたくなる。羽織る衣紋があまりに違うから、抱えているままそっと揺すり上げ、ふと揺れた白い頬を覗き込む。


  ――― …? 島田?
       久方ぶりの外はどうだ。
       ………寒い。
       それだけかの?
       田も木も色が…。


 ああ違うのは仕方がない、秋も終わりだからのと。しみじみと呟く惣領殿の、肩口から胸元へとこぼれていた深色の長い蓬髪へ、そぉっと頬をつけてみて、
「………。」
 ツルリと素っ気ない外気の中では、こうまで寄らねばこちらへと届かない、大好きな匂いを吸い込みながら、久蔵はそれはしみじみと吐息をついた。
『もう、仕事は しまいか?』
『ああ。もうしまいだ。』
 ならばもう俺のものだと宣言したけれど、我身の現状の情けなさには思っていた以上に参ってしまい。七郎次から宥められ、何とか落ち着いてから…そんなにもこの男へ執着を持っている自分だということをもまた、あらためて思い知らされたこととなり。刀の一閃による一時的な快楽を…薙ぎ払うことが難しいものであればあるほど、それを凌駕するその瞬間に大きなものを得られる、あの格別な恍惚をだけ、彼へと求めていた筈が。もはやそんなことへ焦がれている自分ではないらしく。
「…。」
 この身を委ねて頼もしい、肢体も温みも、精悍で趣きある匂いも、
「…久蔵?」
 具合が悪いのかと案じてくれる、響きのいい、深みのあるこの声も。触れていてこんなにも心地よく、こんなにも手放し難いものになろうとはよもや思わなかった久蔵であり。斬り伏せて爽快感を得たいとする難敵の腕のほどへだけの執着から、彼という存在そのものがほしいという執着へ、意識が切り替わるのにそうまでの時間は必要なくて。
「…。」
 例えば、今さっきのささやかな出来事とその顛末にしても。

  『…大事ないか?』

 一体どっちの散歩であるやら。ちゃんとついて来ておるかと後ろをばかり気にしていての不覚、足元不如意で樹上から落ちかかった自分へ。驚きながらも駆け寄って、腕を広げてその懐ろへ受け止めんとしてくれた人。自身への怪我や痛みを恐れて、ぶつからぬように身を避けるのではなく。尚の怪我をせぬかと久蔵を案じてくれた、その腕を延べてくれた人。もう、野伏せり相手の戦さは終わったのに。だから、あんな約束なんて反故にして、こんな物騒な自分など、こんな役立たずな自分など、虹雅渓へでもどこへでも、追い返したっていいはずなのに。いつもいつも穏やかな眼差しで見守ってくれていて、気鬱に俯くこちらの様子も、何とはなくながらにでも拾ってくれていて。実を言えば、それがますますの重しになっていたのだけれど。

  「………島田。」
  「んん?」

 少ぉし枯れてか、味のあるその声を、ただ聞きたかっただけだから。どうした?との尋ねへ“何でもない”とかぶりを振れば。喉の奥で小さく笑って、抱えているこちらの身をそっと揺すり上げ、
「今少しだからな。辛抱せよ。」
 疲れたと尚の駄々をこねたとでも思われたらしいが、そうではないと訂正する気も起きなくて。ほんの小半時もかからぬ程度の、快癒最初のお散歩は、何だか突飛な、けどでもささやかな幸せを再確認出来た、暖かいそれに終わったようでございます。











     ◇ おまけ



 家へと戻ると上がり框へその身を置かれ、疲れただろうとお顔を覗き込まれたが、
「〜〜〜。///////
 半分ほどは嘘だったので、かぶりを振って平気という仕草。それよりも、その身が離されたのが寂しくて。そうかそうかと、ぽふぽふと髪を撫でてくれた手を追って。囲炉裏の方へと上がってく、白い上着のお背(せな)を追って。ついてったそのまま間際へ座ると、その膝頭へと手を載せる。そうまでの懐っこい態度を、閑居の暇の相手ほしさだと釈(と)ったらしく、
「働き者なシチと違い、我らでは家の中ではすることがなくて、どうにも難儀だの。」
 くつくつ笑った惣領殿。ふと、その手をお留守番の相方の頬へと延べて来て、
「さっき、擦りむいたのか?」
 指先でひょいと顎を支え、余った親指でするりと撫ぜられたところが、言われてみれば微かにひりりとするようで。自分が留守の間に、それもお顔へ、怪我を増やさせてどうするかと、
「シチに知れたら叱られるのだろうな。」
 小さく苦笑ってそれから、そのまま。ついと身が伸び、
「…。////////
 その頬へ、覚えのある温かいのが触れて来た。さっき懐ろへと抱えられていた時そのままの、間近になったは温みの気配と精悍な匂いと、それから。頬へと触れたは濡れた感触がチロリと一瞬。擦り傷を舐めたらしいと判りはしたが、
「…俺は、飴ではない。」
 顎へ添えられた手、逃げぬようにと捕まえての言へ、
「ほほぉ、甘もぉはないか。」
 言葉と裏腹、突き放したくはないなら、さて どうしたいのかと。真っ直ぐ見やる赤い眸を、こちらからも見つめれば。
「………。/////////
 そこまでが限度なのか、ふいっと視線を逸らしてしまう。ちらと見やっただけで何でも汲んでくれる七郎次とは違い、ぐいぐい押して押してでないと押し返してくれぬ、勘兵衛の案外と意地悪なところへと。何で判らぬのだと憤って真っ赤になりつつも…離れ難いという想いとのジレンマに、ついのこととて唇を咬む稚
(いとけな)さが、
“…成程、可愛い、か。”
 昨日の会話で、古女房殿が言ったそれとは微妙に意味合いが違ったが。このじゃれ方の間合いには、そういえばとの覚えもあって。
“………。”
 胸の中へと僅かずつ、柔らかな力でつねられているかのような、切なくも甘い痛みが満ちて来たのを覚えつつ。それでもまだ、こちらからは動かずに、どうするのかと様子を伺えば、
「…。」
 こちらの手を捕まえていた手を再びお膝へと戻すと、ぐんと押し込んで身を乗り出して来たのも…いつぞやと同じだったので。
「これ、久蔵…。」
 いくら何でもと、健常な方の肩を掴んで押し止どめた。まだ陽も高いし…じゃあなくて。相手はまだまだ全快とは呼べぬ怪我人で。久々の散歩であっさり萎えたほどに、まだ完全ではない身だというに。
「〜〜〜。」
 途端に焦れたようなお顔を向けて来るのもまた、あの晩、蛍屋の奥向きで見たお顔のそのまま、既視感 有り余るほど同じであったのが、
“…謀ってのことでないなら尚のこと。”
 その拙さもまた罪なことよと。気を抜いた隙をつき、
「お…。」
 引き剥がされまいぞとの意志の現れ、懐ろ深くへと潜り込み、それでとりあえずは大人しくなった温もりの。まといし上着の本来の持ち主へ、

  “何か起きても不可抗力ぞ?”

 こればかりは自分一人で抗い切れる自信がないと、早くも負け戦の宣言を。同じお空の遠い先、勇ましくも荒野を疾走中だろう古女房殿へと。届くはずもないなり、一応はとそっと囁いてしまった勘兵衛様であったりしたそうな。






負け戦を覗いてみる?





 きっちり5日後の昼下がり。橋向こうの物陰へ停めて来たらしいホバーから、たかたかと軽快に駆けて来た気配を真っ先に拾ったのは、おサスガな次男坊であり。
「ただいま、久蔵殿。」
 戸を開けて駆け込んで来るなり、いい子でいましたかと言わんばかりのお相手へ。片やもいい子だったようと言いたげな歓待ぶりで、框から飛び降りたその結構な勢いのまんま、おっ母様へと駆け寄った次男坊。腕は? 痛みませんでしたか? こちらも日に日に冷え込んで来てたでしょうに、ちゃんと暖かくしていましたか? ご飯はちゃんと食べてましたか? そこだけ真似たか、勘兵衛様と同んなじで、川魚は骨が触ると途端に箸を進めなくなるのだから…と。やっぱりおっ母様じゃあないですかとの評が集まるのも道理という勢いで、自分が不在だった間の心配を、次男坊へと一つ一つ尋ね訊く彼であった…………のだが。

  “……………おや。”

 その僅かな身長差から、ふわふかな髪の中へと鼻先を突っ込むこととなったおっ母様。そこから立った微かな匂いから、おややぁ?と…素早く何かに気づいたらしくって。
「…。」
 その髪が金色だったのをいいことに。透かすようにしてそぉっと視線を投げた先の囲炉裏端には、我らが惣領様が、これも以前と変わらぬまんまに おいでであって。
「………。」
 意味深な眼差しで、ちろりんとそちらを眺めやる。そんな元副官こと古女房殿の勘の良さへも。悪びれもしないまま、小さな苦笑を見せるものから。
“…なぁんだ。”
 七郎次としては…ちょっぴり気が抜けた。
“そうそう案じることもなかったみたいですね。”
 妙なところで大人のやりようを持って来て、寂しいと思わせぬよう持ってった辺りが…老獪なんだか即妙なんだか。
「…シチ?」
「あ、いえいえ。何でもありません。はい、お土産の菱屋のおせんべえですよ?」
 虹雅渓にて探って得られた、予断を許さぬ世情や何や。目まぐるしく移り変わる時の流れや時代のうねりも。ここにいる時だけは関係ないと、胸の裡
(うち)から追いやって。すっかりと気を許していられる場所。彼らにとっては、神無村もまた“癒しの里”に違いないのかも…。




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  *あああ、ここで見つけた絵は結局どうなったのかを、
   書くの忘れてしまいましたね。(おバカ〜〜〜・泣)
   まあ、次の章辺りで浚うことと思いますので…。

  *本文途中に“負け戦”への入口が隠してあります。
   そんな仰々しくもない、ぬるくて短い代物ですが、
   一応は年齢制限付きのページですので、
   関心のある高校生以上のお嬢様のみ、探して飛んでって下さいませvv
   (ヒント;…って、分かりやすすぎですよねぇ?・苦笑)

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